靡けこの山 -柿本人麻呂「石見相聞歌」-

 

 

これは僕がまだ高校生だったときの話。
プリントのことをレジュメと呼ぶやつがまだ誰もいなかった頃の話だ。

高二の時の数学の先生は少し変わった先生で、授業が始まると手書きのプリントを決まって一枚配った。

そこには彼のオススメの本が紹介されていた。
京大を出た先生で、数学のみならず物理、生物学にいたるまで。さらには小説から随筆まであらゆる本という本を読んだ知識豊かな先生だった。

 

始めの5分程度を使って本の紹介をしてくれるのだが、僕にとって一番楽しみなのがその時間だった。

数学0点をとって受験に落ちた僕にとって数学の授業は苦痛でしかない。

とてもわかりやすい先生だったが、彼の力を持ってしても数学の授業時間は僕にとっての睡眠時間と化した。本当に申し訳ない。

 

さて、そんなユニークな先生が紹介する本はとても面白く、僕は紹介された本をいくつか図書館でチェックしていた。

ある日の授業。先生がいつものように配るプリントには、ある長歌が載っていた。

 

 

 

「みなさん和歌とかって好きですか」

 

 

独特のおっとりとした口調で先生が話し出した。

 

「僕は数学をずっと教えていてね、君たちのような頭のいい学生を教えて来ましてね。こんな感じでずっと本を紹介しているんですよ。」

 

 

 

「ただずっと気になっていたことがあってね。やっぱり理系っていうのもあるのか、あんまり文学とかそういうものに関心がある人が少ない気がするんだよね。」

 

確かに僕のクラスの友人で頭のいい奴らは難しそうな数学とか物理の本ばかりを読んでいた。僕といえば全くの逆で、何で理系にきたんだろうってくらい数学も物理もできず、そんな本を読んだら目次でギブアップするようなダメ生徒だった。

 

「君たちは数学には何が大切だと思う?」

 

え、地頭の良さじゃないの?

 

「それはねえ。情緒なんだよ。」

 

情緒。情緒ってあれか?いとをかしとかのあの情緒???

当時の僕にはちんぷんかんぷんだっただ。彼曰く、物事をじっくり観察して、それにもののあはれを感じ取る感性が数学には必要らしい。

 

「僕はね、ぜひ皆さんにそういう心を養ってほしんです。だからね、日本に昔からある短歌や和歌の良さをですね、分かる人間に育ってほしんです。」

 

 

 

そういうと、プリントに印刷してある和歌を読み上げた。

 

 

柿本人麻呂 「石見相聞歌」

 

石見(いはみ)の海 角の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄らめ 夕羽(ゆふは)振る 波こそ来寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山

 

 

【訳】石見の海の角の海岸を、よい浦などないと人は見るだろうが、よい干潟などないと人は見るだろうが、それならそれでよい。 たとえよい浦はなくても、たとえよい干潟はなくても、私にとってはかけがえのない所、この海辺を指して、和田津の岩場のあたりに、 青々とした玉藻や沖の藻を、朝、鳥が羽ばたくように風が吹き寄せ、夕べに鳥が羽ばたくように波が打ち寄せる。 その波のままに、あちらへ寄ったりこちらへ寄ったりして揺らぐ美しい藻のように寄り添って寝た妻を、露霜が置くように角の里に置いてきたので、 この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。 いよいよ高く、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草が日差しを受けて萎(しお)れるように思い嘆いて、私を慕っているだろう。 その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。

 

 

「僕はこの歌が好きでね。毎年生徒に紹介しているんです。この歌の持つ言葉の力強さって、すごいですよ。特に最後のね、『靡けこの山』ってところ。」

 

 

ー妹が門見む 靡けこの山

妻のいる家の門を見たい。なびきされ、この山よ。

 

 

この長歌を詠んだとき、ぶるっと体が震えた。

 

 

靡けこの山

 

 

660年から724年まで生きたと言われる柿本人麻呂。

 

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彼は今から遥か1300年以上昔に、里に置いてきた妻の家を一目見るため、山。あの山である。

それに向かって「靡け」と言い放った。

そんな男の愛を唄ったのだ。

 

 

 

靡けこの山って、めちゃめちゃかっこよくないですか。でもこれ1300年も昔の人が詠んだ歌なんですよ。でもね。時代を超えて、平成を生きる僕らの心にもね、その言葉の持つ強さってのが、ひしひしと伝わってくる。これってすごいことだよね。」

 

 

教室の片隅に座りながら、僕はひとり感銘を受けていた。

言葉ってすごいな。何なんだろうこのずっしりとくる重さは。

どうしてなんだろう。どうやったら山に向かって「靡け」だなんて言えるんだろう。

どうしたらいいんだろう。どうやったら僕も、こんな時代を超えて人の心を動かせるような、そんな言葉を紡ぐことができるんだろう。

 

ただの数学の苦手な一生徒に、いつかものを書いてみたいという想いを芽生えさせてくれたのが、あの数学の先生。そしてこの柿本人麻呂の「石見相聞歌」だったのだ。

 

 

この歌は、大学に入ってからもずっと僕の頭の片隅にあり、ふとした瞬間、

夕暮れの帰り道にひとり夕焼けをみたときとか、飛行機から雲を見下ろしたときとか、夕立に襲われ雨とコンクリートのにおいに包まれたときとか。刹那に、

 

「靡けこの山」

 

この言葉がぱっと頭の中に現れた。

いつか僕もそんな言葉を見つけられるのだろうか。1300年も昔の歌人の言葉は、今も僕の背中を押してくれる。

 

 

「僕はね、みんながこういう言葉を通してね、情緒を感じ取ってくれる大人になってほしんですよ。数学の問題を解く以前にね、心の機微ともいうのかな。そんなね、僕たちの感情を揺さぶるものにね、素直に感動できる人になってほしんです。」

 

あの先生は、まさか僕がその歌を今に至るまである種のバイブルとしてずっと大切にしているとは思ってもいないだろう。もう一度会う機会があったらぜひ感謝の気持ちを伝えたい。そして僕もそんな情緒を解するような、心の豊かな大人になりたい。僕には難しい数学の問題を解くよりも大切なことがたくさんあるんだ。

 

 

高々とそびえ立つ山に向かって「靡け」と。

そんな力のある言葉を探し、僕は今日も筆を進める。

 

 

万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

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<参考記事>

 

www.nakajima-it.com

 

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